アリエッティとお屋敷の没落

こどもまなび☆ラボというサイトで、『子どものための英文学』という連載をもたせていただいている。この木曜日に新たな連載分が上がる予定なのだけれど、今回その連載で書ききれなかったことがある。

読者層と目的を考えると、やはりそれは入れることのできない話で、考えた上で思い切って切ったのだけれど、本当はこれが書きたくて提案したような話だったのでこちらで。

 

借りぐらしのアリエッティ』と『床下の小人たち』の話。というか、小人たちとイギリス上流階級の話。

 

アリエッティ』を見ただけではピンとこないだろうけれど、基本的に『借りぐらしのアリエッティ』の原作となった『床下の小人たち』は、「消えつつあるイギリスの上流階級」と「お屋敷」をしのぶ話だ。そこには2度の大戦でイギリスという国が決定的に変わっていってしまうのではないか、という不安感や郷愁のようなものが色濃く残っている。

 

床下の小人たち』は「朝ごはんの間」と呼ばれる居間でメイおばさんとケイトという女の子が話をしている場面から始まる。そしてその描写が秀逸だ。

Now breakfast-rooms are all right in the morning when the sun streams in on the toast and marmalade, but by afternoon they seem to vanish a little and to fill with a strange silvery light, their own twilight [...]

朝ごはんの間っていうものは、朝、お日様がトーストとマーマレードの上に燦々と降り注いでる間はいいんですけれど、午後になると少し存在感がなくなって、不思議な銀色の光、朝ごはんの間の黄昏みたいなものでいっぱいになるものです [筆者訳]

「朝ごはんの間」にだけ訪れる「黄昏 twilight」は、他の住人に必ずしも気づかれるものではないけれど確かに黄昏であって、消えゆく種族の物語の幕開けにはふさわしい。

 

映画『アリエッティ』は非常によくできているけれど、原作が持つ時代性というか、階級差の対立のようなものに、意識的にか、無意識的にか、無頓着だ。日本に舞台を移し、日本の観客を相手にしているのだから、それはある意味当然の変化なのかもしれないけれど、やはりどこかに小さな歪みが出てくるし、それが一番典型的に現れるのは家政婦ハルさんの造形だと思う。

 

なぜ彼女はあそこまで執拗に小人たちを狙うのか。なぜ、お屋敷の住人である翔がいろいろな「プレゼント」をしているのに正当に与えられたものを受け取っているだけの小人たちを「泥棒」と呼ぶのか。

製作陣は家政婦ハルさんの執着の理由を「子供の頃小人を見つけたのに信じてもらえなかったから」としているけれど、そもそも原作でも小人たちを追い詰めるのは使用人たちの役回りだ。むしろハルさんを原作の登場人物(ドライヴァおばさん)を下敷きにして作ったからだ、と考える方がしっくりくる。

そして「盗む」ことと「借りる」ことの間には、やはり明らかなポリティクスがある。

 

端的に言って、原作では小人たちを借りぐらしの人達として受け入れるのはお屋敷の住人たちであり、「泥棒」と呼び、捕まえようとするのはお屋敷の使用人たちだからだ。

以下、訳は特に但し書きがない限り林容吉氏のものによる。

 

 

床下の小人たち―小人の冒険シリーズ〈1〉 (岩波少年文庫)

床下の小人たち―小人の冒険シリーズ〈1〉 (岩波少年文庫)

 

 

小人たちを受け入れるUpstairsと小人たちを泥棒と呼ぶDownstairs

床下の小人たち』の舞台になるのはケイトという小さな女の子にいろいろなことを教えてくれる「メイおばさん」が少女だった時代だ。

 

出版当時の1952年にメイおばさんが60-70歳だったとすると、舞台は20世紀の初頭。第一次大戦前だと考えてもいいのかもしれない。アリエッティのおじさんは「1892年の4月23日に」人間に見られたとなっているから、さほどずれてはいないだろうと思う。

 

そして借りぐらしの小人たちは「おこりっぽくて、うぬぼれ屋でこの世界は自分たちのものだと思っている」(20)。人間は雑用をするために存在するものだと思っていて、それなのに「内心ではこわがっている」(21)と紹介される。

大きな屋敷にすみ、人間たちを「雑用をするもの」とみなす「小人たち」はイギリスの特権階級を想起させる特質を最初から多く持ったものとして紹介されているわけだ。

そして実際、小人たちが見せるお互いの「家柄」に対するこだわりは明らかだ。アリエッティの家族はもはやこの家に住む唯一の家族であるのに、母親ホミリーの会話は他の家族とその家柄の話に満ちている。ビクトリア朝のアッパーミドルクラス以上の人々がしばしばそうであったように。

それは出版当時、子供の読者にはピンとこなかったかもしれないけれど、読み聞かせていた親たちにはすぐにわかることだったのではないかと思う。人によっては涙が出るほど懐かしい、戦前の世界でもあっただろう。

 

二つの戦争の間には家事使用人はどんどん減っていき、戦後になるとほとんどその存在がいなくなる。同時に、大きなお屋敷で、使用人に囲まれた生活というものもめっきりと数を減らす。

 

「エメラルドの時計!」と、男の子がさけびました。

「ええ、うちの壁にかけてあるからいっただけよ。だけど、それは、おとうさんがじぶんで借りてきたのよ。」  (122)

 

 

エメラルドのついた時計を気軽に「借りる」小人たちと、基本的には小人たちの「借り」を許している屋敷の住人たちは基本的に同じ陣営に属している。となれば、家事使用人であるドライヴァおばさんが小人たちを目の敵にするのも当然と言えば当然なのだ。

小さな宝石がなくなった時、もっともきつく責められ、困った立場に追いやられるのは家事使用人たちなのだから。

上階に住み、家事労働の恩恵に預かる屋敷の住人(upstairs)と階下に住む使用人(downstairs)たち。そして、空間的にはDownstairsのさらに下にいるのに、お屋敷の持ち主たちには受け入れられる小人たち。

 

アリエッティのハルさんが小人を執拗に捕まえようとする理由は、彼女が安い賃金でこき使われ、何かがなくなった時には真っ先に疑われる家事使用人の末裔だからだ、と私は思うのだ。